1616年(万暦四十四年)、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(赫図阿拉)でハーン(可汗)の地位に就き、国号を金、元号を天命とした。前後して、ヌルハチは女真の民族名を文殊菩薩にちなんだ満州(manju, 満洲)に改め、エルデニ(額爾德尼)と噶盖に命じてモンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定め、また八旗制という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。
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1618年(天命三年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに味方して満州につらく当たる事、祖父と父が明に誤殺されたことなどが書かれている。明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と号する兵を満州討伐に送り出し、翌年撫順近くのサルフ(薩爾滸)において10万を号する満州軍と激突した(なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる)。数の上では満州の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、大勝した(サルフの戦い)。
サルフで明軍に大打撃を与えたヌルハチは、後ろ盾を失ったイェヘを吸収し、完全に女真を統一した。1621年(天命六年)、勢いに乗ったヌルハチは瀋陽・遼陽を相次いで陥落させ、遼陽、次いで瀋陽(盛京)に遷都した。此の段階で、後金の勢力圏は遼河の東方全域に及んでいた。
1626年(天命十一年)、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとする。ところがその手前の寧遠城(現在の興城県城)に、将軍袁崇煥がポルトガル製の紅夷大砲を大量に並べて満州軍を迎え撃った。紅夷大砲の威力に満州軍は散々に討ち減らされ退却した。清の記録ではこの敗北の数日後にヌルハチは病死したとされるが、ヌルハチが大砲で傷を負い、これが原因で死去したとも推測されている。遺体は遼寧省瀋陽市東の郊外の福陵に葬られた。
ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子ホンタイジ(皇太極)が後を継ぐことになった。
ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで、明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。