2009年12月10日

徴兵忌避

徴兵を逃れるには国籍の変更、亡命、免除規定の活用、身体毀損や逃亡等の方法があるが、意思的な不服従の立場から徴兵に従わないことを徴兵拒否といい、そのなかでもさらに倫理的・政治的・宗教的な信条に発する徴兵の拒否を良心的兵役忌避という。
一般的に徴兵忌避は、法律の規定によって罰せられることが多く、場合によっては命令不服従、脱走罪、敵前逃亡罪として死刑になる国家もある。しかし現在では良心的兵役忌避を基本的人権の1つとして認め、そのための代替に清掃や介護、消防のような社会奉仕活動への従事を制度として整備している国が多い。

徴兵拒否運動は、ベトナム戦争期のアメリカ合衆国の若年男性によるものが知られる。政治的な理由、宗教的な理由から徴兵拒否は行われ、ベトナム戦争当時、モハメド・アリはイスラム教の教えに従うとして、徴兵を拒否した。SF作家のウィリアム・ギブスンは、徴兵を拒否してカナダに移住し、しばらくホームレスとして路上生活を経験した。元大統領のビル・クリントンはカナダに留学して徴兵を巧みに回避している。『ベトナム症候群』(著者:松岡完、出版社:中公新書)によると、ベトナム戦争への徴兵に従わなかった者は57万人、うち起訴された者は2万5000人、有罪判決を受けた者は9000人、実際に処罰されたのは3000人となっている。

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また、黒人解放運動家のマルコムXは精神異常を装うことで、第二次世界大戦の際に徴兵されるのを逃れた。物理学者のファインマンは兵役につく際に行われた精神鑑定の結果、不採用になった。アインシュタインは「偏平足」の診断を受けて、スイスの兵役を免除されている。
児童文学作家のミヒャエル・エンデは16歳の時、召集令状を破り捨て、ミュンヘンまでシュバルツバルトの森の中を夜間のみ80km歩いて、疎開していた母の所へ逃亡。その後、近所に住むイエズス会の神父の依頼でレジスタンス組織「バイエルン自由行動」の反ナチス運動を手伝い、伝令としてミュンヘンを自転車で駆け回った。

2009年11月30日

天魔

天魔(てんま)とは、第六天魔王波旬(はじゅん=悪魔)のこと。仏道修行を妨げている魔のこと。天子魔(てんしま)・他化自在天(たけじざいてん)・第六天魔王(あるいは単に魔王)ともいう。あるいは天魔の配下の神霊。

第六天とは、仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう。この天に生まれたものは、他人の楽しみを、自由に自らのものとすることができるという。

初期仏教において天魔として名前を挙げられるマーラー(マーラ)・パーピーヤス(天魔波旬)のほかに、後期ではインド=イランから中央アジアの神、マヘーシュヴァラ(大自在天、ヒンドゥー教の神シヴァと同一視されることも)が天魔と表記されることから、同一視されていることが多い。

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涅槃経では序品において、釈尊が今まさに涅槃せられんとする場面から始まり、そこには釈尊の涅槃を知って様々な人物が供養しようとして馳せ参じるが、その中には魔王波旬もいたと説かれる。その内容は以下の通り。

波旬は、仏の神力によって地獄の門を開いて清浄水を施して、諸々の地獄の者の苦しみを除き武器を捨てさせて、悪者は悪を捨てることで一切天人の持つ良きものに勝ると仏の真理を諭し、自ら仏のみ許に参じて仏足を頂礼して大乗とその信奉者を守護することを誓った。また、正法を持する者が外道を伏する時のために咒(じゅ、真言)を捧げ、これを誦する者を守護し、その者の煩悩は亀が六を蔵す(亀が四肢首尾を蔵めて外敵より身を守ること)ものであると述べて、最後の供養者として真心を受け給うよう願い出た。釈尊は「汝の飲食(おんじき)供養は受けないが、一切衆生を安穏にせんとするためのその神咒だけは受けよう」と仰せられた。波旬は三度懇請して咒は受け入れられたが終に飲食供養は受け給わず、心に憂いを抱いて一隅に座した、と記されている。

2009年11月26日

吸血鬼

吸血鬼(きゅうけつき)は、民話や伝説に登場する架空の存在で、ヒトや動物の血を吸う怪物。多くのフィクションにおいて題材として取り上げられてきた。バンパイヤ、ヴァンパイヤ、ヴァンピルなどとも書かれる。一般に吸血鬼は、一度死んだ人がなんらかの理由により不死者としてよみがえったものと考えられている。現代の吸血鬼・ヴァンパイアのイメージは東ヨーロッパの伝承に起源をもつものが強い。吸血鬼の伝承は世界各地で見られ、ヨーロッパのヴァンパイアに加え、アラビアのグール、中国のキョンシー等がある。この場合、吸血鬼という名称が用いられているが、人間の血を吸う行為は全ての吸血鬼伝承に共通するものではない。吸血鬼の個体としてはドラキュラ、カーミラが有名。

古くから血液は生命の根源であると考えられており、死者が血を渇望するという考えも古い。例えば古代ギリシャに書かれたオデュッセイアでは、オデュッセウスが降霊の儀式を行う際に生け贄の子羊の新鮮な血を用いるくだりがある。このようなイメージが吸血鬼を生み出したと考えられる。

吸血鬼伝承の形態は、全ての民間伝承がそうであるように地域や時代によって一定しないが、一度は葬られた死者が、ある程度の肉体性を持って夜間活動し、人間・家畜・家屋などに害悪を与えるという点では、おおむね一致している。
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吸血鬼の姿は生前のままであるか、もしくはぶよぶよした血の塊のようなものであるとされることが多い。両者とも、一定の期間を経れば完全な人間になるとされることもある。また、様々な姿に変身することが出来るとされるのが一般的である。吸血鬼は、小さな虫に変身する、ねずみに変身する、霧に変身するなどの手段を用いて棺の隙間や小さな穴から抜け出し、真夜中から夜明けまでの間に活動するものとされた。棺の蓋を開けて抜け出すものとは考えられていない。また、地域によって異なるが、特定の月齢や曜日、キリスト教の祭日などの日には活動できないとされる場合が多い。

2009年11月12日

気候

夏期は10月から3月、冬期は5月から8月である。地域による差はあるのだが、一年を通じて気候は比較的温暖で日照時間が長い。

しかし、海岸部以外は高地なため同緯度の国に比べやや気温は低い。国全体の平均気温は、冬が0度から15度、夏が20から40度と差が大きい。内陸高地の冬の気温は0度以下になることもあり、ドラケンスバーグ山脈のような高い山の山頂では降雪もある。東部の海岸は高度も低く、暖流のモザンビーク海流が流れているために暖かい。西部の海岸は寒流のベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらない。

雨季は11月から3月。東と西で雨の降り方が大きく違う。東部は季節風の影響で夏に雨が降るが、南西の海岸はいわゆる地中海性気候で、移動性低気圧により冬に雨が多い。降雨量は東側から西側に行くにしたがって少なくなる。
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南半球なので北に行くほど暑くなりそうだが、内陸部は高原地帯であるためそれほど暑くはならない。
南アフリカには特色ある生物種からなる生態系が形成されている。植物は多様な環境に適応したベンケイソウ科やトウダイグサ科、ハマミズナ科の多肉植物やトランスヴァール地方に花畑を形成するガーベラやユリオプスデージーなどキク科の植物、あるいはエリカやクンシランなどは珍奇な姿や美しい花から園芸植物として世界中で栽培されている。

2009年10月31日

鑑賞・および上映中の行儀

講堂を含め、映画館内は禁煙である。これは消防法との兼ね合いで決まっている。最近では、上映の前に携帯電話の電源を切っておく事を促す広告が目立ってきている。

指定席制度の映画館では、先着順・ないしは座席を指定して、銀幕が見やすい場所から席が埋まっていく。自由席制度の映画館では、完全先着順で座席を決めて座ってよい。ただし自由席の場合、友達や知人などのために複数の座席を占領するのは行儀違反である。
人気作品の場合は、通路に立ち見客が発生する事態も考えうるが、立ち見客が発生する場合に、鑑賞チケットの販売を行うかどうかは、映画館の判断による。ただし、各館における定員は、立ち見を含めてあらかじめ設定されており(都道府県によっては、館内にそれを掲示させているところもある)、それを超えて入場させると、映画館が処罰の対象となりうる。
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作品の本上映が始まる前に、次回に上映する映画の予告編、上記のような「映画館からの上映中のマナーやお願い」やCMなどが、スクリーンに映される。

多くの映画館では、付属の売店もしくは自動販売機で軽食や飲み物を販売している。講堂内でこれらの軽食類を食しながら映画を鑑賞する場合、他人の鑑賞を妨げる事があってはならない。そのため、売店で販売されるメニューの多くは、食べても音をあまり発しないポップコーンなどのものが主体となる。そういった客への利便性のため、上記の写真のように、座席にカップホルダーが付いている映画館もある。

2009年10月20日

三曲合奏が行なわれる曲は

三曲合奏が行なわれる曲は「三曲」の中でも地歌曲(三味線組歌を除く)が多いほか、箏曲(段もの、及び山田流箏曲の歌もの、段もの)、まれに胡弓本曲(「岡康砧」など)がある。当然「三曲」の範囲内で行なわれるので、地歌以外の三味線音楽では、三曲合奏はまずほとんど行なわない。長唄曲に「三曲糸の調」や「三曲松竹梅」があるが、これは三曲を指し、つまり三種の楽器を詠んだもので、三曲合奏の意味ではない。また三曲合奏が行なわれるわけでもない。地歌曲の「三つ恋慕」も同様な趣向の曲であるが、こちらは地歌なので三曲合奏が行なわれる。また三曲に属する箏曲の中でも、筑紫箏、及び八橋流箏曲は三曲合奏以前の音楽を伝えているので、まったく他楽器との合奏を行なわない。

地歌曲の場合は、多くは元の三味線パートに後に箏や胡弓のパートが付けられた。後から付けられるパートは流派によって異なっている場合が多い。楽器編成は古くは三弦、箏、胡弓の組み合わせが一般的であったが、箏、胡弓、尺八といった組み合わせの三曲合奏も行なわれた。胡弓の代わりに尺八が加わることも江戸時代後半から行なわれていたが、明治初年に虚無僧制度が廃止されて以降、尺八が積極的に三曲合奏に進出し、今日では胡弓よりも尺八が加わる方が圧倒的に多くなった。ただし胡弓入りの三曲合奏がなくなったわけではなく、現在でも各地で行なわれ、特に名古屋では比較的盛んであるし、また山田流箏曲に藤植流の胡弓が加わり三曲合奏されることもある。歌のある曲の場合は、三味線,箏の奏者が弾きながら唄う。
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三曲合奏を人体になぞらえて、三味線は骨、箏は肉、胡弓、尺八は皮にたとえられることがある。通常、胡弓と尺八は持続音楽器として同じ働きをするので互換性が強く、三味線、箏、胡弓か、三味線、箏、尺八の編成が普通である。ただし、一般的ではないが箏、胡弓、尺八と言った組み合わせも可能である。

2009年06月20日

建築物や自動車などの製品の機構に

建築物や自動車などの製品の機構に内在する欠陥(負荷や強度など)を模型やコンピュータによって探して取り除く。
ビジネスにおいて客層や商品、時間帯、店舗等の調査結果をシミュレーションに取り入れることで、効率的な販売をする。
災害の発生や規模の予知。地震、津波、火災などの自然災害や、原子力発電所のメルトダウンや航空機事故などの人災などの防災。
自動車におけるドライブシミュレータや航空機におけるフライトシミュレータ等、各種の操縦、操作を学ぶ手立てとしての利用。いろいろなシチュエーション、特に実機では危険を伴うような場面を体験することが可能となる。
シミュレーションゲームではシミュレーションを娯楽として行う。ボードやコマやカードを使い事象を再現するようなルールに基づいてプレイするものと、コンピュータを使って事象の再現を行わせるものとがある。ウォーゲーム、戦略ゲーム、経営ゲームなど。前項のドライブ、フライトシミュレータはレース、戦闘などの形でゲームとしても存在する。
その他、天気予報や人口の推移、予測、分析の分野でも広く使われている。
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コンピュータによるシミュレーション [編集]
コンピュータの登場によって、人間の手による計算ではほとんど不可能な膨大な量の総当りでしか行えない計算が比較的短時間で行えるようになったため、コンピュータによるシミュレーションは自然現象や経済活動や人口の推移といったものに使用されるようになった。コンピューターの演算能力の発展は、以前は縮小模型や実物大模型などによって行われていた実験を計算による仮想空間のみで実験・予測することが可能になってきている。

物理学 [編集]
例えば、木の葉が舞い落ちる動きを通常の手計算で導き出す事は不可能であった。これは重力や空気抵抗だけでなく、木の葉自体の動きによる空気の状態の変化などが複雑に絡み合っているからである。この、カオティックな振る舞いに対して、単純計算を膨大に繰り返す事の出来るコンピュータによって、ある程度の周期性や規則性を見出されうる。

軍事 [編集]
軍事分野においては戦闘状況をシミュレートしたモデル研究が行われており、地形、時間、損害率、兵員数、戦闘価値、移動速度、発見率、命中率などの要素から戦闘の推移、両軍の損害などを導き出すことができる。また指揮官制、補給計画立案、戦術研究、海空軍の訓練などでシミュレーションは用いられている。

2009年06月02日

全軍での麦飯支給が決定した

戦地では、1904年5月頃から脚気が増えはじめ、気温の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦飯を支給し[10]、翌年3月に全軍での麦飯支給が決定した。また国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、陸軍衛生部さらに大本営の野戦衛生長官・小池(陸軍省医務局長)に対する批判が高まり、戦後も小池が辞任するまで『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづいた。最終的に陸軍は約25万人の脚気患者を出し、うち約2万7,800人が病死したとされる。まさに脚気惨害である。ちなみに、日露戦争の戦死者は約4万7,000人。ただし、戦死者中にも脚気患者が多数いるものと推測される(日清戦争時と同様に史料により人数が異なる。なお、高木の提案を採用して兵員に麦飯を支給していた海軍では、軽症患者が少数発生したのみで死者なしと伝えられているが、上記のとおり後年、患者数が大幅に増加した)。

陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦争が終わると、世論の脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。脚気問題を取り上げつづけた『医海時評』が孤軍奮闘する中(ときにはマッチポンプさえして陸海軍の対立をあおった)、1908年に脚気の原因究明を目的として臨時脚気病調査会が創設された。当時、陸軍大臣であった寺内正毅 の伝記によると、発案者は陸軍省医務局長に就任してまもない森林太郎(ただし、上記のとおり日清戦争当時、麦飯支給に強硬に反対した)で、寺内自身も熱心に活動したという。その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、当代一流の研究者が総動員され、多額の予算がつぎ込まれた。大規模な試験により、脚気ビタミン欠乏説が確定して廃止(1924年)されたが、多くの業績(個人の業績として公表されたものを含む)を挙げ、また、その後の脚気病研究会の母体となった。脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づけられている[11]。
ケア 税理士 結婚 リフレ 仏具 アロマ ショップ 資格 衣料 予備校 中国四国 美容整形 予約 審美歯科 弁護士 老人 開業 クレジット 美容整形 教材 成人病 アウトドア 専門学校 宿泊施設 セミナー 地域情報 ネイル 建売 しわ取り 信託 出会い 成人病 SOHO タロット 美容整形 老人 成人病 通信販売 プリスクール 家庭教師 家庭教師 産業 美容整形 老人 審美歯科 アルバイト 実益 成人病 生活雑貨 多汗症


なお、自身も脚気に苦しんでいた明治天皇が海軍や漢方医による食事療法を希望した際にドイツ系学派の侍医団から反対された事からやがて西洋医学そのものへの不信を抱いて一時期には侍医の診断を拒否するなどしたため、天皇の糖尿病が悪化した際に侍医団が有効な治療手段が取れなかったのではないかとも言われている[12][13]。

ビタミンB1が発見された後も、一般人にとっては代わらず難病として認定され続けた。その理由としては、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため値段が高かったこと、元々消化吸収率が良くない成分であるため、発病後に当該栄養分の摂取が困難であり発病後の治療が困難であったことが挙げられる。

脚気が完全に根絶されたのは1952年になってからで、この年に武田薬品工業が高吸収率を誇るビタミンB1誘導体の工業生産に成功して販売開始し、安価かつ発病後もほぼ確実にビタミンB1の摂取が可能になってからである。アリナミンの項も参照。ビタミンB1誘導体にはベンファチオミン、ジセチアミンなどもある。

しかし、1975年には脚気が再燃し[14][15]、原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンクフードがあることが分かった[16]。

なお、明治時代から昭和初期にかけて「迷信的」と言われて絶滅寸前だった鍼灸医等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学の栄養学の概念を取り入れて、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を投入する「糠療法」を提唱し民間療法として取り入られ始めた。これが効果を示したことで、一般民衆において漢方医の地位の維持に貢献したと言う側面がある

2009年04月30日

後金の建国、明との戦い

1616年(万暦四十四年)、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(赫図阿拉)でハーン(可汗)の地位に就き、国号を金、元号を天命とした。前後して、ヌルハチは女真の民族名を文殊菩薩にちなんだ満州(manju, 満洲)に改め、エルデニ(額爾德尼)と噶盖に命じてモンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定め、また八旗制という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。

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1618年(天命三年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに味方して満州につらく当たる事、祖父と父が明に誤殺されたことなどが書かれている。明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と号する兵を満州討伐に送り出し、翌年撫順近くのサルフ(薩爾滸)において10万を号する満州軍と激突した(なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる)。数の上では満州の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、大勝した(サルフの戦い)。

サルフで明軍に大打撃を与えたヌルハチは、後ろ盾を失ったイェヘを吸収し、完全に女真を統一した。1621年(天命六年)、勢いに乗ったヌルハチは瀋陽・遼陽を相次いで陥落させ、遼陽、次いで瀋陽(盛京)に遷都した。此の段階で、後金の勢力圏は遼河の東方全域に及んでいた。

1626年(天命十一年)、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとする。ところがその手前の寧遠城(現在の興城県城)に、将軍袁崇煥がポルトガル製の紅夷大砲を大量に並べて満州軍を迎え撃った。紅夷大砲の威力に満州軍は散々に討ち減らされ退却した。清の記録ではこの敗北の数日後にヌルハチは病死したとされるが、ヌルハチが大砲で傷を負い、これが原因で死去したとも推測されている。遺体は遼寧省瀋陽市東の郊外の福陵に葬られた。

ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子ホンタイジ(皇太極)が後を継ぐことになった。

ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで、明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。

2009年04月15日

カスティーリャ王国

カスティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。

「Castilla」の日本語表記はこれまでカスティーリャ、カスティリャ、カスティリア、カスティーヤ、カスチラと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。
カスティーリャ伯領 [編集]
8世紀初頭にイスラム教勢力がイベリア半島を席巻し、キリスト教勢力は、半島北端のカンタブリア山脈以北および北西部のピレネー山脈山麓周辺に追いつめられた。カンタブリア山脈の北ではアストゥリアス王国が成立、イスラム軍と衝突しつつも、徐々に南方へ領域を広げていき、914年、レオンへ遷都した(これ以降はレオン王国と呼ばれる)。レオン王国の東部地域は、メセータと呼ばれる周りを山々に囲まれる高原が広がり、常にイスラム軍の侵攻ルートとして使われ、戦闘が繰り返された。この地域の住人は、防衛のため多くの城塞を作った。この地域がカスティーリャと呼ばれるようになったのは、スペイン語で城を意味するカスティーリョ (castillo) に由来すると言われる。当初この地は複数の伯領に分かれていたが、最前線としての軍事力強化を目的として、932年にカスティーリャ伯領として統合された。カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスは、レオン王国内での地位を強め、伯領に対する王国の支配力を排斥し、961年には事実上独立した。

1029年に、カスティーリャ伯ガルシア・サンチェスが暗殺されると、その妹を后としていたナバラ王サンチョ3世が伯領を継承し、ナバラ王国に併合した。この頃、イベリア半島の中部および南部のイスラム圏(アル・アンダルス)では後ウマイヤ朝が内紛で衰退し、タイファと呼ばれる小国が乱立する群雄割拠の時代に向かっていた。タイファの多くは、キリスト教国のナバラ王国に貢納しつつ、タイファ間での戦争により、ますます疲弊していった。

カスティーリャ=レオン王国
1035年にサンチョ3世が死去すると、ナバラ王国領は4人の王子によって分割相続された。カスティーリャを相続した次男フェルナンド1世はカスティーリャ王を称し、さらに、1037年にはレオン王ベルムート3世を倒し、レオン王位をも獲得する。こうしてカスティーリャ=レオン王国が誕生した。

フェルナンド1世の死後も分割相続されたが(1065年)、カスティーリャ王となった長男サンチョ2世は弟や妹らの領地を力ずくで再統合すべく行動を起こす。しかし、最後に残った都市サモラを攻囲中にサンチョ2世は暗殺された。その結果、亡命していた弟のレオン王アルフォンソ6世が1072年にカスティーリャの王位をも得て、再び両王国は同君連合となった。アルフォンソ6世は1085年、イスラム国のトレドを攻略し、さらに支配領域を拡大させようとした。危機感を抱いたタイファ諸国は、アフリカのムラービト朝に援助を求めた。ムラービト朝はそれに応え、1086年に兵を上陸させ、サグラハスの戦いにおいてアルフォンソ6世率いるカスティーリャ軍を撃破した。敗れたアルフォンソ6世はトレドまで撤退した。決戦に敗れはしたが、アルフォンソ6世はイベリア半島のちょうど真ん中を流れるタホ川流域以北をキリスト教圏とすることに成功した。一方、南部のアル・アンダルスでは、ムラービト朝によってタイファ諸国は併合され、統一された。

アルフォンソ7世の時代に、カスティーリャ王国からポルトガル王国が独立した(1143年)。また、ムラービト朝に代わりムワッヒド朝がイベリア半島南部を統治する。1157年にムワヒッド軍との戦いでアルフォンソ7世が戦死すると、カスティーリャ=レオン王国は再度分割相続され、サンチョ3世のカスティーリャ王国とフェルナンド2世のレオン王国とに分かれた。カスティーリャ王国は、東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン王国、ポルトガル王国とは国境線をめぐって戦闘が繰り返された。ムワッヒド朝との戦いも進展せず、一進一退を繰り返していた。このような状況で、教皇インノケンティウス3世は、キリスト教諸国間の争いをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争に邁進することを命じた。これに従い、カスティーリャにはレオン、ポルトガル、アラゴン、ナバラ各国の兵、さらにテンプル騎士団などの騎士修道会やフランスの司教に率いられた騎士らが集結した。ムワッヒド朝のカリフ、ムハンマド・ナースィルも、10万以上の兵を集め、キリスト教連合軍を撃ち破るべく北上する。両軍は1212年7月16日にラス・ナバス・デ・トローサで決戦し、キリスト教連合軍が勝利した(ラス・ナバス・デ・トローサの戦い)。この戦いによって、ムワッヒド朝はイベリア半島での支配力を失い、イスラム勢力圏は再び小国乱立状態となり、その多くはタイファ同士の主導権争いで敗れたり、勢いづいたキリスト教諸国の餌食になり、滅びた。その中でグラナダを首都とするナスル朝グラナダ王国が成立する。

カスティーリャ王国統一 [編集]
カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘とレオン王アルフォンソ9世との間に生まれたフェルナンド3世は、1217年にカスティーリャ王となっていたが、父の死に伴い1230年にレオン王位を継承した。レオンとカスティーリャは再び同君連合となったが、これ以降、両国が分かれることはないため、単にカスティーリャ王国と呼ばれる。

1236年、コルドバの攻略に成功。1246年には、ナスル朝を臣従させる。1248年のセビリャ攻略には、ナスル朝からも兵を拠出させ、長期戦の末に陥落させた。こうして、イベリア半島のイスラム国はナスル朝グラナダ王国のみとなった。

フェルナンド3世の後を継いだアルフォンソ10世は、カスティーリャとレオンで異なっている政治制度、法律、通貨、税制、度量衡などの統一にとりかかった。ローマ法を元に『七部法典』を編纂。首都トレドでは、アラビア語で書かれた医学、数学、天文学の著作がラテン語に翻訳され、ヨーロッパにもたらされた。

アルフォンソ11世は、『七部法典』を実施に移した。グラナダ王国は、アフリカのマリーン朝と提携して、カスティーリャ王国に対抗していたが、1340年、カスティーリャ軍はサラードの戦いに勝利し、マリーン朝にイベリア半島から手を引かせ、グラナダ王国を孤立化させた。しかし、グラナダを攻略することはできなかった。1343年にカタルーニャに上陸したペストは、翌年、カスティーリャでも猛威を振るい、全人口の2割近くが死去した。また、王権強化を目指す王は下級貴族を登用し、有力貴族を押さえようとするが、既得権を守りたい有力貴族は反発し、王位継承権をめぐる争いに発展する。ペドロ1世と庶子であるエンリケ2世の王位継承権争いは、アラゴン、グラナダ、さらには、百年戦争中のフランスとイギリスの介入を招き、戦乱が拡大する。1369年、ペドロ1世がモンティエールの戦いで戦死、エンリケ2世がカスティーリャ王に即位、トラスタマラ朝が開かれた。
エンリケ3世が死去すると、子のフアン2世が即位し、エンリケ3世の弟フェルナンドが摂政となった。フェルナンドは1410年、対グラナダ戦争を開始し、アンテケーラを攻略した。フェルナンドは1412年にアラゴン王に選出され、フェルナンド1世となる。しかし、その後もカスティーリャの宮廷に君臨し続け、アラゴンに主導権を奪われた。彼の死後も子らが権勢を振るっていたが、成人したフアン2世とカスティーリャ貴族らはこれを追放、アラゴンとの関係は悪化した。

エンリケ4世は有力貴族らとの間で争ったが、1468年にトロス・デ・ギサント協定を結び、王位継承者を娘のフアナ・ラ・ベルトラネーハではなく、貴族らが推す異母妹のイサベル1世とすることに同意した。1474年にイサベル1世が即位すると、アラゴン王太子である夫のフェルナンド5世を共同統治者とした。一方、ポルトガル王妃となっていたフアナ・ラ・ベルトラネーハもカスティーリャ女王即位を宣言し、カスティーリャはイサベル支持派とフアナ支持派とに分裂する。フアナ支持派とポルトガルの連合軍に対し、イサベル派とアラゴンの連合軍は戦闘に勝利し、1479年、ポルトガルはイサベルの王位継承を承認した。同年にフェルナンドもアラゴン王に即位し(アラゴン王としてはフェルナンド2世)、カスティーリャとアラゴンが同君連合となった。イサベルとフェルナンドは国内の反対派を討伐した後、1482年に、対グラナダ戦争を開始する。そして1492年、グラナダは陥落し、レコンキスタは終結した。

1504年にイサベルが死去すると、ハプスブルク家に嫁いでいた娘フアナが女王に即位、フェルナンド5世が摂政となった。1515年、ナバラ王国を併合し、イベリア半島はカスティーリャ=アラゴン連合王国(すなわちスペイン王国)とポルトガル王国の2ヶ国となった。

新大陸 [編集]

1492年、クリストファー・コロンブスが西インド諸島に到達。1494年にポルトガルとの間で締結されたトルデシリャス条約に基づき、カスティーリャ王国は、アメリカ大陸をその領土にする。

スペイン王国 [編集]
フェルナンド2世が死去すると、孫のカルロス1世がアラゴン、カスティーリャ両王に即位する。これにより、ハプスブルク朝スペインが成立する。ただしこの時点では、カスティーリャ王国はスペインを構成する国の1つとして、政治的に独自性を保持し続けた。カスティーリャ王国がスペイン王国に糾合され正真正銘消滅するのは、スペイン継承戦争を経てブルボン朝スペインが成立した後、フェリペ5世の時代に、国内の中央集権化が実施されたときであった。

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